昭和五十六年一月二日 朝の御理解
御理解 第六十一節 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておく のぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に 話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教 えたことをちがわぬように人に伝えて真の信心をさせるのが 神へのお礼ぞ。これが神になるぞ。神になりても、神より上 になるとは思うな。」
神より上にはなるとは思うなと、私はここんところを読む時にいつも面白い表現だなあと思うんです。
神様になれる程しの信心。又、神様にまでなったんだから、そんなに慢心やら出るまいと、神より上になるという事は慢心という事でしょうけれども、ところが金光教でいう神様、いわゆる生神というのはそういう油断をしておると、慢心が出る神様なんです。油断をしておると、又、元に戻ってしまうような神様なんです。
いうならば、よく本質と神の本質といったような事を申しますけれども、実に、金光教でいう教祖金光大神が言うておられる神とはここに神が生まれるという事で、自分の心の中に神が生まれると言う事であってという、神様いわゆる生神である。
だから生きておるのですから、痛いもありぁ痒いもある。病気もすれば様々な問題もやはり普通と同じなんである。だから私共がいつも心を神様に向け続けさせてもらうその精進が、怠られる事になると又、それこそ慢心どころではない、神より上になるというような慢心どころではない。
それこそおかげを元に戻してしまわねばならん、まあ、いうなら頼りないというかその替わりに又、限りない御神徳に進んでいけれる神様なんです。
限りないおかげの頂けれる、なら、神様なんです。いつまでも尽きぬおかげを話にしておるというのがそれです。限りない。だから限りないものえの、まあ、憧念というか憧れというものが、だんだん燃えてくるというか、それをどういう事に私共は焦点を置いたらよいかと言うと、それが神になるのぞと。人に実意丁寧に話をして人に伝えて、真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ。神へのお礼。もうその事だけを考えておけば間違いないという事です、ね。
神様へのお礼、それには先ずやはり金光教の神様を、金光教でいう神様の本質をわからしてもらい、又御信心によっておかげを頂き、そのおかげに対してじっとしてはおられんという心が憧念の心に変わって、そして明けても暮れても神様へのお礼、神様へのお礼の事ばかりを考えていく生き方。これならいわゆる、限りないおかげへの道がついてくるんです。
金光教で言うここに神が生まれるという神様は、たえず生まれ続けられる神様。昔玉水の教会に熱心な御信心をされる呉服屋さんがあった。もうとにかく、神様へのお礼参りにかかってござる。朝お参りをする、帰ってみるともうお客さんが見えとる。 いや有難いと言うてから、又、お参りをする。帰って来ると、どこどこから集金が集まってきておる。又お礼参りをされる。息子さんがお父さんもうそんなに帰っちゃ参り帰っちゃ参りせんでん一ぺんにね、日に一回なら一回お礼参りされたらどうですかと、まあ言われたという話があります。
当の御本人としてはおかげを受けているのを目の当たりに見たら、お礼参りをせにゃおられない。帰って見ると又おかげ頂きよるけん又、お礼参りせにゃおられん。
しかしこんな楽な信心はなかろうと思うですね。今日は私が言うとしているのは、やや、それと同じような意味の事を言おうとしておるんです。
神へのお礼ぞと必ず教会に参って来なくてもよいけれども、いつもたえず自分の心ん中におかげの実感があり、勿体ないこのようなおかげを頂いて、と言うおかげを受けてそして、このお礼を何んとかして、形の上にも表させてもらおう、そのお礼を形に表させてもらう第一のお礼が、自分の周辺に真の信心をする人がでけてきて、真実の助かりの人間氏子が増えていくという事を、神への第一のお礼。
昔の御信者さん方は、神様は何が一番喜びなさるちいうても、人のお供えが一番喜びなさるといったような事を言うておりましたね。いわゆるお導きの事を言うてたのでしょう。
そして真の信心をさせるのがこの辺がちょっと難しいんですけれどもね。只、お導きしただけじゃでけん。その後が養生がいる。手当てがいる。真の信心をさせるのがとあるのですから、だからしろく時中自分の心の中に神様への御礼の事だけが思えれる、考えれるような私はおかげを受けたと思います。
しかも尽きぬおかげ、金光大神が残しておって下さる御信心。それをもってする事によって尽きぬおかげ、限りないおかげそれにはやはり限りない神様への憧念が燃えてくる。あればお願いせんならんからお参りといったようなものではなくて、もう心の中にあるものは、お礼の心ばっかり。だからこれならば尽きる事がない。それならば尽きるおかげ、尽きぬおかげに合う事が出来る。おかげを受けるそのおかげの実感が何んとか神様に喜で頂く。なら、神様に喜んで頂くという事は真の信心をさせるのが信心のない人達に真の信心を教えていく、伝えていくという事が神への御礼ぞ。
自分の心の中がいつもお礼の心でいっぱい満たされるというような信心を頂きたい そういうところへ焦点を置いての信心。その過程に於いて、いうならばお願いをする事もいっぱいある。いうならば、振り返って見るとお詫びをしなければならない事もいっぱいある。そこからお礼の心というのもが、頂けれるようなおかげ、いわゆるおかげの実感である。
これは話を聞いたからわかるという事でもなからなければ、しばらくそれに取り組んだからというてわかるものでもないだろうと思います。けれどもふつふつとして、自分の心にこうたぎってくるというか、いつも心の中に生き生きとして人の助かる事を願わしてもらう信心、神様へのお礼の心をいつも心にかけさせて頂く信心、そういう信心から心の中に育ってくる神様。自分の心の中にある神様への御礼ごころ。その真実の御礼の心が、そのまま私共が自分で自分の心に合掌するような心。それは神様も又、私共の心を合掌しておって下さる。その思うておる事がいうならば、形に表れてくる。それが実意丁寧というものだと思います。
どうぞ。